2017.10.09 (Mon)

Hohnstein ホーンシュタイン

ザクセンスイスと呼ばれる風光明媚なエリアにたたずむ古城と小さな町。
たたずむと言っても岩山に建っているので圧倒感はある。
その名もホーンシュタイン。


ザクセンスイスで有名なBastei橋と同じく観光名所のひとつである。
Bastei橋⬇︎


13世紀の初めにマイセン辺境伯との境を防備するために砦が建てられたという。
しかし史書にこの地が初登場したのは1333年になったからだ。


城下町も可愛らしい家が建ち並んでいるが上り降りと坂が続き歩くのは辛い。
でも仕方がないか、ここはザクセンスイスなのだから。


お城は牢獄としても使われていた事があるし、旅行者宿泊施設としても使われていた。


今もホテルになっており、ザクセンスイスを散策するにはもってこいの場所である。


ちなみに車でBastei橋の方面からHohnsteinに行く場合、いろは坂までは行かないけれどヘアピンカーブの坂道を下って上って、峠を攻めたい方にはオススメのポイントであった。


グーグルマップでどうぞご確認を!
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2017.10.03 (Tue)

Glashütte グラスフュッテ

私は正直言って時計に詳しくない。
腕時計も持っていない。
でも時計はカッコイイと思う。
以前、チェコの時計メーカーPrimを紹介したけれど、今回はドイツ時計村をご紹介しよう。
プラハからドレスデン方面に向かい、国境を越えたらもう直ぐなんだけれど、Glashütte村もしくは町で高級時計を作っている。
そこで2008年5月22日にオープンした博物館に行ってきた。
もともとはドイツ時計学校だった建物である。


まず出迎えてくれたのがヘルマン ゲルツ作の天文時計だ。ムーブメントは1756パーツ含まれ、完成までに30年掛かっている。
さらにガイドブックによると、この天文時計は2799年までプログラムされていると言うではないか。
本当かな?
木製ケースはマホガニー材だ。


さらに進むと部品ボックスがあり、懐中時計に必要なナンバリングされた部品があった。
部品ナンバー134,144,307,604,1128は今日でもメンズとレディースの腕時計に存在している。


そして懐中時計のコレクションが並び、見る者の目を圧倒させる。


腕時計とその部品がショーケースに並んでいる。


さらには腕時計がのれんの如く垂れ下がっている。


今回は車で来たけれど、もし列車で来るとするならば、最寄駅はGlashütte駅で、駅のそばにGlashütte時計の各ブランドが工場を構えている。
A.Lange & Söhne
ちなみにドレスデンのヒルトンホテル前にあるショッピングモールに店舗があるのだが、時計が入っている棚はマイセン磁気製だそうだ。


Nomos
ショーウィンドウを見たが1600ユーロから。
まだお手頃の値段?


Glashütte オリジナル


博物館で見た懐中時計の中で私を魅了した一品。
ゴールドでもシルバーでも無く、スチール製で超シンプルな時計であった。


今はスウォッチの力添えがあるけれど、時計好きの方、ドイツ高級時計を見たい方、是非Glashütteに行ってみよう。
詳しくは時計好きの人が作っているサイトを検索して下され。


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2017.09.03 (Sun)

アルトシュテッテン城

プラハから南、ターボル、トゥシェボン、ハラームキーとひたすら走る。車で。
国境を超えオーストリアに入り、オーストリアビールで有名なズヴェッテルを抜けて今度は南西に進路を取る。遠くに川霧がかかっているのが見える。あと少しでドナウ川だ。しかしドナウ川までは行かず、その手前に建つアルトシュテッテン城に向かった。
プラハから車で3時間半。


この城は前々から見学したいと思っていた城で、城を目にした時は「やっと来た。」と感動もひとしおであった。別に城自体は超立派と言う訳でもないから、城だけ見ても感動する事は無いのだけれど、プラハでツアーガイドと言う仕事をしているため憧憬の念が強まっていたのであろう。
その理由はなぜか。
答えは、ハプスブルク家皇太子フランツ フェルディナンドと妻ゾフィーのお墓が有り、現在も彼らの曾孫アニタ ホーエンベルクが所有している城だからだ。


ハプスブルク家はオーストリアの貴族だし、プラハの一ガイドがなぜフランツ フェルディナンド一家に興味を持つのか皆さんには理由が分からないかも知れないけれど、プラハでツアーガイドをしているからこそ、不思議とフランツ フェルディナンドに親近感を持ってしまうのである。
何故なら、彼ら一家はプラハから南に50kmほどの所に建つコノピシュテェ城を所有し生活していたからだ。
そのコノピシュテェ城の案内を何度もしていて、勝手にではあるが自然の流れでハプスブルク家のメンバーの中でもフランツ フェルディナンドにかなりの親近感を持っていたのだ。
だから、彼のお墓のあるアルトシュテッテン城はぜひとも訪れたいと、同志を募り墓参りに出掛けた訳である。


そもそも、フランツ フェルディナンドって誰?
と言う方に、以前にも紹介しているけれど再度ざっくりと紹介しよう。
オーストリア皇帝フランツ ヨーゼフの甥でオーストリア皇太子である。
本来、皇位継承権には程遠いポジションにいたのだけれど、皇帝フランツ ヨーゼフの弟マキシミリアンがメキシコで殺され、息子のルドルフがウィーン郊外のマイヤーリンクで自殺し、フランツ フェルディナンドの父親カール ルドヴイークも没しと、不幸な事に短期間で継承者が次々と亡くなり、ついにはフランツ フェルディナンドに皇位継承権がまわってきたのだ。それが因果か、1914年6月28日にサラエボでセルビア人のガヴリロ プリンツィプに暗殺されてしまった。
そしてご存知の通り、その暗殺事件(サラエボ事件とも言う)がきっかけで第1次世界大戦が勃発してしまった。


私は10年前にサラエボに行きその暗殺現場も見たけれど、現場には「まさにその場所」とマークがあり、そばには小さな資料館があって当時の様子が展示されていた。
さらにもう15年ぐらい前か、ウィーンの軍事博物館に行き、そこに暗殺時に乗車していた車や軍服もあった事も記憶している。
さらにさらに暗殺者ガヴリロ プリンツィプが投獄されていたチェコ北部のテレジーンにも行った。
それらの資料がアルトシュテッテン城にも展示されている。


続けてフランツ フェルディナンドの紹介。
先述の通り、皇位継承権からは遠い存在だったので砲術を学び軍に属し、趣味に没頭していた。
他には結婚相手を選ぶのは大変だった。
爵位関係なく好きな女性を選ぶことはまず不可能に近かった。
それでも結婚相手に選んだ相手はハプスブルク家よりも大分位の低いチェコの貴族ホテク家のご令嬢ゾフィー。
内密に慎重にバレないようにお付き合いしていたけれど結局隠しきれず、テニスをしている時に懐中時計の蓋にゾフィーの写真を忍ばせているのが発覚し、一大スキャンダルとなってしまった。


ハプスブルク家や近しい人は結婚には猛反対。
フランツ フェルディナンドは反対者との戦いを戦い抜きなんとか結婚にこぎ着けた。
子孫の皇位継承権放棄、子孫はウィーンで埋葬しないなどの条件つきで…。
結婚式もひっそりとしたものだった。


1892年から1893年にかけて世界旅行をしている。


日本にも訪れていて、長崎入国、横浜出国だった。


箱根富士屋ホテルに宿泊したのは有名な話だ。


ちなみにエジプトではファラオのミイラにもなっている。


またフランツ フェルディナンドは多趣味な人でもあり、狩猟と収集への力の入れようは半端ではなかったらしい。
コノピシュテェ城ではフランツ フェルディナンドは「狩猟記録なる物を付けていた。」と聞いてはいたが、物を見ていなかったので半信半疑だったが、アルトシュテッテン城にはその記録が展示されていた。
1880年から1909年までの記録で、動物の種類や場所で捕獲した動物の頭数が記されていてる。
合計はなんと272349頭。
たしかにコノピシュテェ城の案内で狩猟で約30万頭の動物を撃ったとは聞いていたし、私自身も案内していたが、この狩猟記録を見てやっと納得できた。
余談ではあるが、日本では狩猟をする時間がなかったらしい。
しかし奈良公園を散策中、鹿を見てどうしても撃ちたい衝動に駆られていたら、背後から鹿にツノで突かれたそうだ。


さらには研究熱心な人でもあり、オーストリア ハンガリー二重帝国に住む人々の言語分布図と言うのも作成している。


そんなフランツ フェルディナンドと妻ゾフィーが眠るアルトシュテッテン城に行って来たのです。


詳しく書き始めたら終わらないのでもう辞めます。
ちょっとしたオタクですね。



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16:56  |  オーストリア  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)  |  編集  |  Top↑

2017.07.21 (Fri)

ヴュルツブルグ

そう言えば、先月の終わり、そうほぼ1か月前、ドイツで開催された行事参加後、プラハへの帰途はバスを使いました。
Flixバスという会社です。


ただ直接プラハに戻るのではなくロマンチック街道の北端の町、ヴュルツブルグに立ち寄りました。


マイン川に架かるアルテマイン橋にはダイナミックなヤンネポムツキー像が立ち、橋を守っています。


川から見上げる高台にはマリエンベルク要塞が立っています。


その要塞を見ながらフランケンワイン・ロゼを頂きました。


橋と要塞や城があるとどうしてもこのようなアングルで見たくなります。


マリエンベルク要塞は町中にレジデンツが完成する18世紀までは司教の居城でしたが、レジデンツが完成すると司教の居城はレジデンツに移り、近所のアパートには著名人が住んでいました。


1833年、リヒャルト ワーグナーです。


町中の家家も可愛らしく、散策には良い町ですね。


久しぶりの投稿もドイツネタでした。
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2017.06.27 (Tue)

フロイデンベルグ

先日ある行事に参加するためフランクフルトに2泊しました。
行事の前日にフランクフルトに入る事にしたので、周辺の町を観光してからフランクフルトに行こうと考え、地球の歩き方ドイツ2007~2008のページをペラペラとめくっていると、ここだ!という町を見つけました。


Freudenbergという町です。
プラハからデュッセルドルフまで飛行機で行き、そこから電車でSiegen、SiegenでバスR37かR38に乗り換えて、と、結構行きにくい町ではありましたが、なかなかに可愛らしい町です。


まずは丘の上から町を見下ろします。
モノトーンカラーで統一された家家はなんともシンプルであり、なんだか心をホッとさせるたたずまいです。


なんでも1540年と1666年に火事で燃えてしまったそうですが、なんとか再建されました。
現在も内装は新しくしても外装は昔のままで建て直しているそうです。


それにしても、いつからかiphone6 plusのカメラの調子が良くないのです。
スクリーンショットは問題ないのに写真を撮ると画面に斑点のような物が写り込んできます。
原因はなんなのでしょうか?


と、ブツブツ文句を言いながら小さな町を歩いています。


そしてあっと言う間に町を歩き尽くし、またまたバスでSiegenへ戻り、電車でフランクフルトに行きました。


車で行けば速いですか、たまには電車、路線バスの旅も良いものですね。


フロイデンベルグに行って来ました。

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17:15  |  ドイツ  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)  |  編集  |  Top↑

2017.06.03 (Sat)

Waldsassenの修道院図書館

ヨーロッパ道路48号線、いわゆるE48を走る。
プラハ、カルロヴイヴァリ、ヘブを抜けるとドイツとの国境だ。
国境を超えてすぐE48右手にはHohenberg an der egerと言う町がある。Feiler社タオルで有名な町だ。
今回はそこではなく、E48から左へ10kmほど車で行くとWaldsassenという町にたどり着く。
そこにはシトー会の修道院が堂々と建っている。


修道院の建物はバロック化されているが、もともとは1133年に設立された。
バジリカ内の装飾が美しすぎる。


この修道院で有名な場所が図書館だ。


有名な図書館なのだろうが、事実、私は存在を知らず、
たまたまGoogleマップでこの辺りを検索していたら見つかり、ぜひ本物を見に行こうと思ったのである。


写真撮影は禁止されているので、ガイドブックの写真で館内をお知らせしよう。
なかなかのインテリアである。


館内は全長25m、幅8.25m、天井までの高さ5.75m。
書棚に取り付けられている木像、書棚の装飾や隠し階段、天井のフレスコ画などとても美しく、そしてユーモアに富んでいる。


Feilerタオルを買いに行くついでにぜひ立ち寄ってみてはどうだろう。

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22:33  |  ドイツ  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)  |  編集  |  Top↑

2017.06.03 (Sat)

Flossenbürg捕虜収容所

プラハから高速道路で西へ走る。
プルゼニュを過ぎ、国境を超えてドイツに入り、一番最初の出口で高速道路を降り、
国境に沿うように北上していくとFlossenbürgと言う小さな町がある。
国境からは直線距離だとほんの5kmしか離れていない。
この場所に1938年から1945年まで捕虜収容所があった。
延べ10万人の者が収容され、少なくとも3万人はここで命を失ってしまった。


収容者のほとんどはナチスドイツに対する反社会的政治犯と犯罪者たちである。
そして、ここに収容所を設営した理由は、ズバリ労働だ。
そばに花崗岩の採石場があり、そこで重労働を課せられた。
その花崗岩はベルリンなどに建設する豪華な建物のための建築材となった。


1943年からは軍需工場もでき、収容者は飛行機の部品の組み立て作業に従事させられ、軍需工場設立と共にバイエルン、ザクセン、チェコに90近くの準収容所が作られたのである。


1945年4月23日に米軍により解放されたが、1500人の致命的な病人しか残っていなかった。


収容者の中にはユシチェンコ元ウクライナ大統領の父親もおり、5か月ほど収容されていた。
そのため、2007年に収容所解放65年記念式典が行われた際、
元収容者84名と共にユシチェンコ元大統領も参加している。


その会報65年記念式典からかつての浴場で常設展示が始まり、
2010年からはかつての収容所の食堂を第2展示室として開館した。

アウシュヴィッツやダッハウほど知られている場所ではないが、
私が出掛けた時もドイツ人団体、チェコ人中学生らが見学に来ていた。

詳しく知りたい方は現地に出掛けて下さい。
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22:16  |  ドイツ  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)  |  編集  |  Top↑

2017.01.16 (Mon)

二泊三日の旅 4

拠点にした町。
Orvieto オルヴィエート。


ここも岩山の上に造られた町。
到着した日はすでに暗くなっていたし、翌日は不本意にもチヴィタに長居してしまったので、最終日の午前中にやっと明るい町を歩く事が出来た。


本来なら昨日の午後、暗くなる前に、町から少し離れた場所まで歩いて行って、岩山の上に造られたオルヴィエートを遠くから見るつもりでいたのだが、先述の通りでそれは叶わず。
圧倒される景色が見れたのに…。
まあ仕方がない。


日曜日の午前と言うこともあるのか、人通りも少なく、一人静かに迷路のような細道を歩く。


その中でもドゥオーモは圧巻だった。
夜に見た時も明るい時も壮大さは変わらない。


しかもチェコではほとんど見かけないタイプだ。


さて、階段のが昇り降りが嫌で有名な井戸には降りなかったけれど町は一通り歩いた。


永遠の都ローマを経由して空港に行こう。


19:20のフライトには少々時間があるから、ローマをそぞろ歩きしてからプラハに帰る事にして、テルミニ駅からメトロでポポロ広場まで行き、そこからスペイン広場、トレビの泉を見て、ボンゴレを食べてから空港に向かった。
ローマをそぞろ歩きなんて贅沢極まりないな。


でもね…。
早くチェコピヴォが飲みたくたくなってきたぞ。

おわり
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