2012.08.21 (Tue)

アルフォンス・ムハ スラブ叙事詩 結

八月に入り、長長長とアルフォンス・ムハの大作「スラブ叙事詩」を紹介した。

ブログで紹介するにあたり、美術館で配布された英語パンフレット、
モラフスキー・クルムロフで購入した日本語パンフレットを参考にした。
あとは歴史的な背景や地理感を理解しやすくするための解説をちょっと入れた。

絵の紹介順は現在美術館で展示されている順であるから、
もしブログをプリントアウトして観に行く方はブログの順序で観ることができる。

仮に一枚の観賞に5分かけるとしたら、見終わるのに100分必要となるわけだ。
結構しんどいだろう。
疲れるだろうから見終わったら美術館のカフェでコーヒーでも飲めばよい。
IMG_3563.jpg

私もプリントアウトしてまた見に行かなくてわならない。
なぜなら改訂せねばならぬ所も多々あるだろうから。

というかガイドブックとして売れないかな?
まあだめだ。
売れるほど質が高くない。

あと、写真が見辛く精神的に不快な思いをした方もいるかもしれない。
失礼しました。
美術館に足を運んで実物をご覧くだされ。




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2012.08.21 (Tue)

スラブ叙事詩 20

賛美「人類のためのスラブ人」

IMG_3562.jpg
1926年 テンペラ絵具と油絵具 480cm x 405cm

スラブ叙事詩最後となる絵では、ムハはスラブ民族の歴史全体を要約しました。
この絵は自由味あふれた優雅さの人物のみで描かれ、建築物や風景は描かれていません。

そしてスラブの歴史が分かるよう、それぞれの時代を色で区別しています。

青の部:古典的神話
赤の部:栄えていた中世
黒の部:圧政の時代
黄の部:1918年に起こった解放

写真 12-10-28 16 46 32

それぞれの部にはその時代の人物を描いていますが、
ほとんどは名の知られていない者達だです。

青の部の古典的神話。
写真 12-10-28 16 46 38

赤の部の栄えた中世だけには歴史上の実在した人物が描かれています。
プシェミスル家、カレル4世、ジシカなどです。
写真 12-10-28 16 47 10
赤の部の下に黒の部は悪政下、屈辱や征服を象徴しています。

黄の部。
1918年、第一次世界大戦終了でオーストリア=ハンガリー二重帝国は崩壊し、
多くのスラブ民族が独立を勝ち取り、自由を獲得した事を物語っています。
伝統的な衣装を着た女性がシーツ上の花で祝福し、
少年たちは緑の小枝を振り、戦争から戻ってきた兵士を歓迎しています。
写真 12-10-28 16 46 48

兵士と共にある旗は第一次世界大戦戦勝国の国旗です。
写真 12-10-28 16 46 58

最上部。
青年は調和の輪を持ち、両腕を大きく広げ自由を表現しています。
青年の下にはムハ好みのモチーフの女性が座り、胸に手を当て光を放っています。
この光は危険な道を通る男性への愛の光だそうです。
青年の後ろのキリストはすべてのスラブ民族を祝福し、
より良き未来が続く事を祈っており、背景の虹は平和を表し、
この絵をスラブ叙事詩のメインメッセージとにしました。

おわり




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2012.08.20 (Mon)

スラブ叙事詩 19

ロシアでの農奴廃止

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1914年 テンペラ絵具と油絵具 610cm x 810cm

1861年、ロシア皇帝アレキサンダー2世は農奴解放法令を発行しました。
19世紀半ば、ロシアは他のヨーロッパ国と比較すると劣り、
特にクリミア戦争での敗戦と国内での反乱がきっかけとなり、
アレキサンダー2世はいくつかの変革に取り掛かって国を変えようとしたのです。
その変革の中に農奴制廃止がありました。
その結果、多くの国民に自由がもたらされ、ロシアは新しい産業と共に発展していく・・・
はずでした。

ムハはアレキサンダー2世の様々な変革後、自由を得た住民が幸福に生活していると考え、
ロシアの農奴解放を歴史的イベントとして、スラブ人最大の国の祝典として描くつもりでいました。
そこで1913年、ムハはこのテーマを描く準備のため実際にロシアを訪れています。
しかし、期待とは裏腹に、その時に見た後進性と無知さの光景に相当のショックを受け、
当初のムハの計画は一変されました。
皇帝の法令発布時に受けた住民のためらい、理解できない様相を描くことにしたのです。

写真 12-10-28 16 44 45
寒い冬の雪が敷き詰めるクレムリン前の広場に、
聖ワーシリー教会が曇天の中そびえ立っています。
広場にいる人々の表情や様子、法令を宣言した肥えた役人、
法令の意義、内容を理解できていないやせ細っている農民、市民と識別ができます。

ただ、濃霧の中、教会の後ろにはうっすらと日が差し込み、
明るい自由が訪れる事を表現しています。
写真 12-10-28 16 45 00

写真 12-10-28 16 45 07

ムハはロシア訪問の際、ドキュメント写真やスケッチなど記録を残しているので、
絵にある人々の表情はその記録をもとにして描いています。


つづく
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2012.08.19 (Sun)

スラブ叙事詩 18

スラブの菩提樹の下での青年の誓い

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1926年 テンペラ絵具と油絵具 390cm x 590cm

1824年に発表されたヤン・コラーの詩集「スラブの娘」は、
人類の歴史の中でスラブの役割を考える上でムハにとっての源となりました。
「スラブの娘」の中でコラーはスラブの木としての菩提樹、
スラブ人の女神スラービアの2点を主なモチーフにしています。

ムハはその2点を結びつけました。
スラブ諸国の形、構造を存分に描き、連合の必要性を強調したのです。
写真 12-10-28 16 45 20

菩提樹と女神スラービアの下、煌々と光が輝いています。
その周りで青年が輪になり膝まづき、
背後にはソコルメンバーとスーツを着た男性が、
手を挙げ誓いを立てている場面です。
写真 12-10-28 16 45 54
ソコルとはスポーツ団体のことです。
ハプスブルグ支配下の時はいかなる政治団体、地域団体も持てず、
スポーツをする団体という名目でソコルが誕生しました。
ソコルとは鷹です。

スーツの男性の顔は誰だか特定できぬよう未完成になっています。
写真 12-10-28 16 45 44
理由については確信できませんが、おそらくムハが政治家の顔を描くことを拒否していたように、
当時のスラブ代表者の顔も描きたくなかったのではないでしょうか。

牧歌的な場所でリースを撒き散らし、
女性たちは誓いには参加せず、
ただその様子を見ているだけです。

手前の小さい壁に腰掛ける少年と少女は、
娘のヤロスラヴァと息子のイジーがモデルになっています。
写真 12-10-28 16 46 03

写真 12-10-28 16 45 32
ヤロスラヴァとされているハープを演奏している少女の絵は、
スラブ叙事詩プラハ展示会のためのポスターとして使われました。

鉤十字のようなマークは古代スラブ文化を参考として、
太陽の動きを意味しているという解釈がされています。

と言っても当ブログの写真ではどこにあるか分かりませんが…

つづく
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2012.08.19 (Sun)

スラブ叙事詩 17

アトス山

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1926年 テンペラ絵具と油絵具 405cm x 480cm

ギリシャのテッサロニキから南東に突き出したハルキディキ半島、
3つの岬が突き出ており、その一番東の岬がアトス半島で、
その先端に標高は2033mのアトス山があります。

男性の修道院があり神聖な場所のため女性の入山は禁止されています。
東方正教会のヴァチカンとも呼ばれ巡礼地となっていますが、
入山者数の制限もあり、おいそれと外国人は入山できません。
ギリシャ領内ではあるのですが自治が認められた修道院共和国です。

古い伝説では、キリストの弟子が迫害された時、
聖母マリアが避難所として見出した場所で、
マリアもここで生涯の幕を閉じたのだそうです。
まだ他の説もありますが…

1924年4月、ムハは実際に入山し、古い神聖な雰囲気に強い印象を受けました。
写真 12-10-28 16 44 30

スラブ叙事詩の最初の3枚(1,2,3)と同様に、
実在物と象徴物のコンビネーションで描き上げています。
実在物は具体的にはっきりと象徴物は神秘的にうっすらと描き分けています。

教会の丸天井にはテオトコス(聖母マリア)のモザイクがあり、
絵の右から力強いイメージのある光が差し込んでいます。
壁周りには筋骨たくましく、智を司る天使ケルビムが、
アトス山にある重要な4つの修道院のモデルを抱え昇っていきます。

セルビア正教会のヒランダル、
ロシア正教会のパンテレイモン、
ブルガリア正教会のゾグラフとヴァトペディです。
修道院名の頭文字がキリル文字で書かれています。

ケルビムは同時にその4つの修道院の「Igumens」を伴っています。
修道院長のことです。

二人の少女は清潔と信仰の暗示したサインを抱え、
イコンの壁のある聖所、イコノスタスで舞っています。

その下で巡礼者が床にキスをし、祈り、ひざまずいています。

芸術的な見地からもスラブ叙事詩の中の傑作だと高く評価されています。

つづく
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2012.08.19 (Sun)

スラブ叙事詩 16

ヤン・アモス・コメンスキー

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1918年 テンペラ絵具と油絵具 405cm x 620cm

チェコの歴史を語る上ではとても重要な人物で、
チェコ史では避けて通れない人物の一人でもあります。
現200コルナ紙幣の肖像画の人です。
そもそも、彼の運命は17世紀の30年戦争で決まってしまいました。

あっ、でも30年戦争って…

超簡単に説明してみましょう。
今までのスラブ叙事詩でも分かるように、
チェコではカトリックだけではなく、フス派、その流れをくむ兄弟団と、
ヨーロッパでは唯一信仰の自由があった国でした。
1526年からハプスブルグ家がボヘミア王になっても、
ハプスブルグの意には反しながらも、それは保たれていました。
しかし、徐々にカトリックありきの政策になって行くと、
1618年、ついに、チェコプロテスタントが反感を持ち立ち上がったのです。
カトリックの貴族二人と書記官一人をプラハ城王宮チェコ事務所から投げ落としてしまいました。
それがきっかけで、カトリックとプロテスタントの戦争が勃発します。
その戦争が30年続いたので後々30年戦争と呼ばれるようになりました。

しかしチェコでは1620年11月8日にプラハ郊外のビーラー・ホラ(白山)でカトリックが圧勝します。
翌年の1621年6月21日に参戦したプロテスタントの有力者27名は旧市街広場で処刑されました。

その後、改宗を拒んだプロテスタントは自ら亡命、もしくは強制追放されてしまいます。
結果、チェコでの信仰の自由が終了したのです。
チェコ議会は国王選出の権利を失い、
後に「暗黒の時代」と呼ばれる時代が300年ほど続くことになります。

コメンスキーもその国外亡命者の一人です。
「大学授額」、「世界図絵」の著者で知られています。

ポーランドからヨーロッパ諸国を周り、晩年はオランダはアムステルダムで過ごしました。

絵は「最期の一日」を描いています。
史実はアムステルダムで亡くなった後、ナールデンで埋葬されたのですが、
ムハは最期の一日をナールデンで過ごさせています。
ナールデンはアムステルダムから南東約20kmの所にある要塞都市です。
写真 12-10-28 16 42 26

コメンスキーは一人離れ孤独な状態です。
そして、みすぼらしく水面を見つめています。
明らかに死が近づいており生気がありません。
コメンスキーの輪郭は地、海、空と、どの空間にも接しているのに、
肉体はどこにも移動する事ができません。
写真 12-10-28 16 42 39

そして消えかかるランプによって母国へはもう戻れない、
帰りたいという希望も死に瀕しているように見えます。
写真 12-10-28 16 42 47

周囲の者は彼から離れ、ジェスチャー、涙、祈りのいずれか、
もしくは風景の動きでコメンスキーと関連付けているのです。

亡命せざるを得なかったものの、
母国と深い関係を保ち続けたコメンスキーに対するムハの称賛は、
ムハが活動していた運動に多大な影響を与えています。
そして、この絵はスラブ叙事詩で唯一ムハのサインが入っているのです。
写真 12-10-28 16 42 59
それは左下に見ることができます。

つづく
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2012.08.17 (Fri)

スラブ叙事詩 15

イヴァンチツェの同朋学校

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1914年 テンペラ絵具と油絵具 610cm x 810cm

bratři 同志、同朋、兄弟

フス戦争を機にチェコ(ボヘミア)兄弟団なる宗教組織が1457年に設立されました。
その流れがモラヴィアへ移行し、モラヴィア兄弟団が設立されます。
ペテル・ヘルチツキー(12で紹介)の唱える教えを受け継ぎ、
聖書を中心とした質素な生活を送り、世俗社会を拒絶したため、
カトリック教会や国王から迫害を受けましたが信徒数は増え、
チェコ(ボヘミア)、モラヴィアに200もの教会を持つ組織に拡大しました。

イヴァンチツェの兄弟団学校には、「チェコ語文法」著者のヤン・ブラホスラフ、
ヤン・アモス・コメンスキー(16で紹介)も所属していたことで有名です。
しかも、イヴァンチツェはムハの生まれ故郷であるから、
この作品にはとりわけ力が入っているのです。
特に好みのモチーフは鳥が取り巻いている兄弟団教会の塔です。
イヴァンチツェが描かれる作品のほとんどにその塔が描かれています。
写真 12-10-28 16 41 57

そしてこの兄弟団学校で教師をしていた先述のヤン・ブラホスラフは、
ギリシャ語の聖書をチェコ語に翻訳し始めました。
最終的に弟子が完成させたその聖書は「クラリツェの聖書」として知られています。
1578年に兄弟団印刷所の機密の安全性からクラリツェに移転されたからその名が付きました。
写真 12-10-28 16 41 43

絵はイヴァンチツェ市壁前の学校での一場面が描かれています。
ムハはこの絵の季節感に秋を選びました。
秋を選択した理由は、この時期、兄弟団の働きが実を結び、
聖書などが数多く印刷され、急速に成長したまさに実り多き時期だったからです。
秋は学校の庭に差し込む日差しと絵の左で男が運んでいるリンゴで表現されています。

しかしながら塔の周りを飛ぶ渡り鳥が、冬の到来を象徴しています。
実り多きこの教会も、いずれ信者が信仰を放棄し、母国を追われる時が来る事を表しているのです。
それは約40年後に起こるビーラーホラの戦いに敗れた結果、
プロテスタント信仰の禁止、国外追放、強制改宗を意味しています。

絵では学者は歩き回り、弟子たちは熱心に作業に取り組んでいます。
左下に盲目の老人がおり、そのわきに青年が座っています。
この青年はムハの肖像とも言われているのです。
写真 12-10-28 16 42 04
資料によって解釈が異なりますが、「老人のために聖書を朗読している。」
もしくは、「聖書に精通している老人が青年に解説している。」
後者の方が相応しいような気がしますがいかがでしょうか…

ムハは、聖書印刷を哲学的論争として解釈したので、
この絵「イヴァンチツェの同朋学校」は、ラファエロの「アテナイの学堂」にかる~く置き換えているようです。

つづく
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2012.08.16 (Thu)

スラブ叙事詩 14

ニコラ・ズリンスキによるシゲトの防衛

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1914年 テンペラ絵具と油絵具 610cm x 810cm

スラブ叙事詩の中で最もドラマチックな絵だと言われています。
クロアチア総督のニコラ・シュビッチ・ズリンスキが自らの命をも絶ったシゲトの防衛戦です。
シゲトは現ハンガリーでブダペストより南、セルビアとの国境付近にある町です。

16世紀の半ば、バルカン半島は欧州に目を向けたオスマン帝国による攻撃が続いていました。
キリスト教国の欧州を征服すべく軍を率いていたのはスレイマン大帝で、
屈指の軍団イェニチェリが猛威を奮っていたのです。

1526年のモハーチの戦いで勝利したオスマン帝国軍は、
3年後の1529年、ウィーンを包囲しました。
その戦いでハプスブルグの下、ニコラ・ズリンスキが頭角を現しました。
その後もキリスト教国を死守すべくオスマン帝国軍と戦い、
連戦連勝でキリスト教国の地を死守したのです。

1566年、シゲトで防衛戦が起こりました。
9万人ものオスマン帝国軍がシゲトを攻撃し、
たった2500人ほどのクロアチア軍が防衛するという悲惨な戦いとなったのです。
その防衛戦でシゲトを守っていたクロアチア軍は全滅しましたが、
同時にスレイマン大帝も戦死し、オスマン軍は撤退したのです。

その最後の決戦が描かれています。
写真 12-10-28 16 43 18

写真 12-10-28 16 43 28

町は陥落し、すでに要塞しか残っていません。
絵の中央では指導者が熱弁を振るい、皆は決戦の準備をしています。
後方に立つズリンスキに住民は誓いを立てています。
女性、子供も戦う準備をし、火薬庫でもある塔に登っていきます。
最上段にはズリンスキの2番目の妻、エヴァ・ロジュンベルクが油壺を投げつけようとしています。
ムハはこの戦いにチェコも関わっていたという要素を示すべく、
実際は戦場にはいなかったエヴァ・ロジュンベルクを描いたのです。
ロジュンベルク家はチェコ貴族です。

ひときわ目に付く黒煙の柱は、火薬を爆破することによって全滅することの予兆、
犠牲者の献身に対する高潔さのシンボルとして描かれました。

つづく
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