2012.08.19 (Sun)

スラブ叙事詩 16

ヤン・アモス・コメンスキー

IMG_3558.jpg
1918年 テンペラ絵具と油絵具 405cm x 620cm

チェコの歴史を語る上ではとても重要な人物で、
チェコ史では避けて通れない人物の一人でもあります。
現200コルナ紙幣の肖像画の人です。
そもそも、彼の運命は17世紀の30年戦争で決まってしまいました。

あっ、でも30年戦争って…

超簡単に説明してみましょう。
今までのスラブ叙事詩でも分かるように、
チェコではカトリックだけではなく、フス派、その流れをくむ兄弟団と、
ヨーロッパでは唯一信仰の自由があった国でした。
1526年からハプスブルグ家がボヘミア王になっても、
ハプスブルグの意には反しながらも、それは保たれていました。
しかし、徐々にカトリックありきの政策になって行くと、
1618年、ついに、チェコプロテスタントが反感を持ち立ち上がったのです。
カトリックの貴族二人と書記官一人をプラハ城王宮チェコ事務所から投げ落としてしまいました。
それがきっかけで、カトリックとプロテスタントの戦争が勃発します。
その戦争が30年続いたので後々30年戦争と呼ばれるようになりました。

しかしチェコでは1620年11月8日にプラハ郊外のビーラー・ホラ(白山)でカトリックが圧勝します。
翌年の1621年6月21日に参戦したプロテスタントの有力者27名は旧市街広場で処刑されました。

その後、改宗を拒んだプロテスタントは自ら亡命、もしくは強制追放されてしまいます。
結果、チェコでの信仰の自由が終了したのです。
チェコ議会は国王選出の権利を失い、
後に「暗黒の時代」と呼ばれる時代が300年ほど続くことになります。

コメンスキーもその国外亡命者の一人です。
「大学授額」、「世界図絵」の著者で知られています。

ポーランドからヨーロッパ諸国を周り、晩年はオランダはアムステルダムで過ごしました。

絵は「最期の一日」を描いています。
史実はアムステルダムで亡くなった後、ナールデンで埋葬されたのですが、
ムハは最期の一日をナールデンで過ごさせています。
ナールデンはアムステルダムから南東約20kmの所にある要塞都市です。
写真 12-10-28 16 42 26

コメンスキーは一人離れ孤独な状態です。
そして、みすぼらしく水面を見つめています。
明らかに死が近づいており生気がありません。
コメンスキーの輪郭は地、海、空と、どの空間にも接しているのに、
肉体はどこにも移動する事ができません。
写真 12-10-28 16 42 39

そして消えかかるランプによって母国へはもう戻れない、
帰りたいという希望も死に瀕しているように見えます。
写真 12-10-28 16 42 47

周囲の者は彼から離れ、ジェスチャー、涙、祈りのいずれか、
もしくは風景の動きでコメンスキーと関連付けているのです。

亡命せざるを得なかったものの、
母国と深い関係を保ち続けたコメンスキーに対するムハの称賛は、
ムハが活動していた運動に多大な影響を与えています。
そして、この絵はスラブ叙事詩で唯一ムハのサインが入っているのです。
写真 12-10-28 16 42 59
それは左下に見ることができます。

つづく
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08:33  |  アルフォンス・ムハ スラブ叙事詩  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)  |  編集  |  Top↑

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