2013.12.16 (Mon)

プラハを探す 広島物産陳列館

広島市を流れる元安川沿い、相生橋のそばに、
今も残る広島物産陳列館をご存知だろうか?


チェコ人建築家ヤン・レツェルの設計で1915年に建てられた。


このヤン・レツェルは1880年4月9日、北ボヘミアはナーホドゥで生まれた。
1901年から1904年までプラハの芸術産業学校でヤン・コチェラの下、建築を学ぶ。
かなり出来の良い学生だったようだ。
就学後の1905年にはプラハに建つホテルエヴロパの一部を手掛けている。
ホテルエヴロパはカフェシリーズ100回目に登場したあのホテルである。

その後、南欧、エジプトと渡り、エジプトでドイツの建築会社のオーナーと知り合い、
プリンス・ルドヴィーク号で香港経由で日本までやって来た。

ドイツの建築会社には長くは勤めず、
チェコ人機械エンジニアのカレル・ホラと知り合い、
1909年にレツェル&ホラ社を設立した。

ちなみにカレル・ホラは和歌山県出身のふくさんと結婚している。
ふくさんはチェコに渡り、亡くなるまでチェコで生活したのだ。
明治時代からチェコ男に惚れるなでしこがいたのである。
詳しくはこの本をどうぞ。


話を戻す。
建築家ヤン・レツェルは日本人には馴染みのないヨーロッパスタイルの建物を建て始めた。

以下にヤン・レツェル設計の建築物を紹介しよう。
1909年:聖心女学院
1910年:雙葉女学校
1911年:長與男爵邸
1911年:日本私立衛生会館
1913年:松島パークホテル
1914年:上智大学
1915年:広島物産陳列館
1915年:東京ステーションホテルの内装
1917年:上野精養軒
1917年:宮島ホテル

3代目の神戸オリエンタルホテルにも携わっている。

数ある建築物の中でも、1915年に建てられた広島物産陳列館を知らぬ者はいまい。
30年後の1945年8月6日、米国空軍による原爆投下後はこう呼ばれるようになったからだ。

原爆ドームと…。


1920年に一度プラハに戻ったヤンはまず商務省で勤務し、
その後、貿易分野でのチェコ日本協会に献身する。
1922年、再び訪日するも、1923年9月1日関東大震災で被災する。
彼の手掛けた建築物は崩壊してしまった。


その後チェコに戻り、1925年12月26日他界。
享年45歳であった。
若すぎる。

ヤン・レツェルはチェコでの実績がないためチェコではあまり知られていない。
でも、チェコテレビで特集番組が放送され、
今もインターネットで見ることができる。
チェコ語だけどね…。
↓クリック
ヤン・レツェル

1932年から1933年にかけて、こんな建物が建てられた。
プラハ市のフランティシェク河岸通りである。
建築計画はは1925年からあったという。


建築家の名はヨゼフ・ファンタ。
プラハ本駅を建てた建築家だ。


広島物産陳列館とは約20年のズレはあるし、
建築時にはすでにヤン・レツェルはこの世にいないけれど…
なんか似ている。

チェコ産業貿易省である。

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